仙台のこの季節にしてはやけに暖かい日だった。
名残雪が降っても何らおかしくない時期だというのに、今日の天気は雨。しとしとと音を立てずに絹糸のように細い銀糸が空から落ちてくるのを、ふと視線をずらした先の体育館の高い窓からぼんやりと見つめる。



雨が嫌いだった。染み込む水で足元がぐちゃぐちゃになって冷たくなるし、傘を差せば視界は狭まり窮屈だったから。だけど、雨の日を少しだけ好きにさせてくれたのが、今は少し離れた場所で話を聞いているんだかいないんだか分からないけれど前を向いて座っている徹だった。

「ねえ、こうしてるとこの世界に2人きりみたいだね」

そう言って狭い傘の中でキスをして、ちっぽけだけれど徹と私2人だけの世界を創り上げてくれた。雨が降った日に、そうしてその世界を堪能するのが幸せだった。2人でいればそれだけでいい、怖いものなんて何もない、そう思ってゆるゆるとした暖かさと心地良さに身を委ねていた。
だけど、そんな緩やかな関係が怖くなって、自信が無くなって、私はその暖かさから逃げ出した。今のままじゃ、私と徹は何も変わらない。ずっとこうしてこのまま生きていく、それも決して悪いことじゃないだろう。でも、そうじゃない。今のままの私は2人だけで生きていけるほど強くも器用でもない。そんな漠然とした不安に直面して、どうしたらいいのか分からなくなって、「推薦で大学決まってる徹と違って、受験に集中したいから」そんなとってつけたような理由で徹から、暖かな世界から逃げ出したのだ。
徹がいなくなった私の世界は、昔感じていたよりも案外広かった。1人分の傘に1人が収まっている。普通のことなのに、ぽっかり空いた世界の右半分が、私の世界に徹がいなくなったことを見せつけているみたい。
だからといってまたこの狭い世界に2人で収まる勇気は無くて、後悔したかと言われればしたかもしれないけれど、本当に曖昧な感情のまま、私は毎日問題集を何ページも解いて、模試の判定に一喜一憂して、いつの間にか受験を終えていた。滑り止めとして受験した東京の私立大学の合格通知は、どこか遠くに逃げ出してしまいたかった私にとって幾らもの価値があるように思えた。
そして、今日。全校生徒がぎゅうぎゅうと押し込められた体育館で行われている式典が終わった後に教室で担任から手渡されるであろう一枚の証書は、私が徹から離れていく切符の一枚になる。



ぼんやりと外を眺めていた視線を前に戻そうとしたとき、小さく首を傾けて後ろを振り向いた徹と目が合った。
不意に訪れた瞬間に、思わず目が逸らせなくなる。徹が、目を逸らさないから。
その射抜くような視線が、徹の好きなところの一つだった。さっきまで眺めていた窓の近く、体育館の2階から、コートの中で一つのボールを追う徹をずっと見ていたのだ。何度見てもきれいだと思った、その視線が、今は痛いほどに私に注がれる。大好きだった視線のはずなのに、その視線で他の誰でもなく私が見つめられることが嬉しかったのに、今は早く逸らしてほしいと思ってしまう。そんなふうに、あの頃みたいに熱いまなざしで見つめられたら、遠ざけた感情がまた、心を支配してしまいそうになる。
視線の重圧に息苦しくなり始めた時、そっと徹の視線が外された。
どうして、今こんなにも苦しくなるのだろう。あの暖かさが、ぬるま湯のような関係が、苦しくなって逃げ出したはずなのに。
きっと、下手に近くにいるから苦しいんだ。いっそのこと会いたいと思ったとしても会えない程に遠く離れてしまえば、きっと私は完全にこの苦しさから逃げられる。
二酸化炭素の濃度が少し増加しているであろう閉め切られた体育館の真ん中で、まるで酸素を求める魚みたいに、私は心の中で「早く、早く」と解放を願っていた。











息苦しい式典が終わり、最後のLHRで卒業証書という名の「切符」を手にした私は、机の中を覗きこんで私がここにいた痕跡が何も残っていないことを確認してから教室を後にした。 廊下では後輩たちが先輩との別れを惜しむ姿が多く見られたれど、時間が経った今ではすっかりその喧騒も嘘みたいだ。静かな廊下を昇降口に向かう。
廊下の窓から外を見れば、まだ雨が降り続いている。こんな日に昇降口で思い出すのは、やっぱり同じような雨の日に、待ち合わせていた徹の背中だ。 私よりも随分と大きい体のくせに、私を待っている背中はなんだか寂しそうな気がして、私が隣にいてあげなくちゃ、なんて考えていたのだけど。今の私にはそんな大それたこと出来る自信なんて無い。
きっともう履く機会は今日が最後であろうローファーに履き替えて、生徒の姿が殆ど見えなくなった昇降口から外に出たところで、見慣れた背中に気が付いた。
大きいくせに、頼りない背中。
無視して横を素通りしてしまっても良かったけれど、それはあまりにも性格が悪いような気がして、そっと声をかけた。



「なにしてんの、徹」



出てきたのは思ったより掠れた声だった。
横に並んでちらりと徹の様子をのぞき見したら、数少ないブレザーのボタンは全て引きちぎられたように無くなっていて、「ああ、徹ってこんなにもモテる奴だったのか」と改めて認識した。今時第二ボタンのジンクスなんて、と思うけれど、それでも縋りたいんだろう。どうにかして繋ぎとめたいんだろう。
その視線に気付いたのか、自分の制服を見下ろしながら、徹は困ったように笑った。



のこと、待ってたんだけどね」



「どうして?」とは聞けなかった。その言葉を発するよりも先に、徹が私の手から傘を奪い去ってその中に入ってしまった。有無を言わさず徹は、いつかみたいに私をその狭い傘の下に引っ張り込む。逃げ出せない。
仕方なく、徹と2人並んで学校を後にした。私のことを待っていたというわりに、徹は口数が少ない。お互いぽつりぽつりと、別れてからこれまでの間にあったことなんかを話しては、また沈黙。
それを何回か繰り返したところで、徹が不意に足を止めた。一緒に私も足を止める。
ぱらぱらと小さな雨粒が傘を叩く音だけが、傘の中に響く。



、俺はすごく弱かったね」

「急にどうしたの、別に白鳥沢に勝てなかったのが格好悪いなんて思ってないよ私」

「そうじゃなくて。俺は、と2人で生きていくには弱すぎたんだ」



想像もしていなかった徹の言葉に、何も言えなくなってしまった。
私の知っている徹は、私への愛とその愛に対する自信に溢れていた。いつも私のことを真っ直ぐに強い気持ちで好きでいてくれた。
そんな徹に応えられる自信が無くなって私は徹から逃げ出したのだけど、離れている間に何かあったんだろうか、徹からそんな言葉が出てくるなんて、思ってもいなかった。



と別れて分かったんだよ。俺はまだ子供で、狭い世界のことしか知らなくて、」
「それに気付かせてくれたのはだったし、そんな時に支えてくれたのは岩ちゃんやマッキー、まっつん、周りのみんなだった」
「俺は、誰かに支えられて生きてた弱いやつだったんだ」



私の傘を持つ徹の手に、きゅっと力が込められるのが分かった。
力の入れすぎか、通常よりかは暖かいとはいえまだまだ冷たい外気のせいか、白くなっている徹の手に、手袋の中で暖められた私の手を重ねることが出来たらどんなにか良いだろう。だけど今の私にそんな権利、無いだろう。
だって、私は本音を隠し続けたままなのだ。今、徹が告白してくれた自分の弱さを、私は棚に上げて受験勉強なんていうこじつけた理由で隠したままなのだ。そんな私が、どうして今徹の手を取れるんだろう。



「だから、俺は強くなろうって思う。強くなって、迎えに行きたいから」

「え、?」

「大人になって、もっと大きな世界を知って、こんな小さな世界じゃなくて広い世界でを守っていけるように強くなって、そしたらのこと絶対に迎えに行くから」

「・・・・・・私が他の誰かと付き合ってたらどうするの」

「俺の方が絶対幸せに出来るって、振り向かせる」

「、ばかじゃないの」

「バカでもいい、それくらいのこと好きなんだよ。だから、これ」



反対の手で差し出されたのは、コロンとしたボタンだった。
青城の制服のブレザーにはもともと3つしかボタンが無いのに、徹の手の平には3つのボタンが載せられている。まるで誰かに引き千切られたかのような言い方だったのに、それを見て何とも言えない気持ちになったのに、ずるい。彼のボタンは、全て私を繋ぎとめるためだけに用意されていたのだ。



「全部、あげる。約束の代わりに。もし、待てなかったら東京から送り返してくれていいから」
「今少しでも俺のこと待ってくれるって思うなら、俺のこと好きなら、受け取って」



徹の視線と言葉は、まるで私に拒否権が無いかのようだったけれど、私は自分の意志でそのボタンを手に取った。
徹は、優しい。弱くてずるい私を責めることもしないで、本当の気持ちを告げられないでいる私が言葉が無くても徹の手を取るチャンスを与えてくれた。
徹のことを嫌いだと思ったことは、一度も無い。逃げ出してしまったのは、私に自信が無かったから。嫌いだったのはそんな弱い自分だった。廊下で徹のクラスの前を通るとき、全校集会のとき、通学路、いつだってどこだって徹の姿を探していて、全ての時間と景色に頭の中の徹を重ねていた私。本当は、逃げ出してからもずっとずっと徹のことが好きで好きで仕方なかったのだ。



受け取ったボタンは単なる約束の代わりなんかじゃなくて、お守りにでもしてずっと大事に持っていよう。
徹はここで、私は遠く離れた東京で、お互いもっと大人になって大きな世界を知って、自信を持って2人で広い世界で生きていけるようになるまでの、徹と私を繋ぐ大事な絆。
逃げ出すためじゃなくて、強くなるためにこの街を出ていく準備をしよう。
今はまだ小さな世界の下で、頼りないけれど暖かい徹の温度を右側に感じながら、手の平の中のボタンをそっと温めた。





見え隠れする傘の下

企画「Confessione」様に提出。
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