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赤葦京治という男の子は、まるで毒のようだと思う。少しずつじわじわと身体を蝕んで、最終的には殺してしまう。そんな存在。特に彼の優しさは、誰に対しても分け隔てなく注がれるというのに、まるでそうではないかのような幻覚を引き起こす。そうしてその幻覚にどんどん溺れていって抜け出せなくなったところで死んでしまうのだ。それなのに赤葦くん本人は全くそれに無自覚で、おかげで私はまんまと赤葦くんの毒に侵されて、分かっているのに逃げられなくなっていく。 そんなことを考えつつも、席順で回ってくる日直が、まるで奇跡のように私と赤葦くんを繋ぐきっかけとなっていることに感謝しながら、背の高い赤葦くんが黒板を隅々まできれいにしていく背中を、私は自分の席に座ってシャーペンを握りしめたままぼんやりと眺めていた。 「さん、日誌書き終わった?」 「ん、あとは赤葦くんのコメントだけだよ」 「仕事早いね、さすが野球部マネージャー」 「いやー褒めても何も出ませんよ」 赤葦くんが小さく笑いながら、真っ白く汚れた黒板消しをクリーナーで綺麗にしていく。ウィーンという大きな機械音のせいで、赤葦くんの笑い声は最初のほんの一瞬しか聞こえなかったけど。普段あまり変化しない赤葦くんの表情が変わる瞬間を見ることが出来ただけでも良しとするべきかもしれない。 野球部マネージャーだから仕事が早いというのにはいささか疑問があるけれど、きっと赤葦くんの中では私の印象はそうなんだろう。初めて赤葦くんと出会ったのは、去年の夏、体育館近くの水道で私が何本ものドリンクを作っていた時だった。黙々と蛇口からボトルに水を注いでいく私の横で、赤葦くんは蛇口を上向きにして直接水を飲んでいた、それだけだったけど、同じようなことが何度か続くうちに少し会話をするようになって、それが例えば理科室に向かう廊下ですれ違う時の挨拶に進展して、気付けば私は赤葦くんのことを好きになっていた。特定の出来事があったわけではないけれど、そう、まさに気付かないうちに私は赤葦くんという毒に侵されていたのだ。 病名を与えられると途端に病人になってしまうように、自覚してしまった途端、じわりじわりとそれは私を蝕んでいく。2年生になって偶然同じクラスになってからは、もちろんこれまでよりもっと多く赤葦くんと一緒にいられることが出来て嬉しい反面、赤葦くんが誰にでも分け隔てなく注ぐ優しさに嫉妬するのも日常茶飯事になってしまった。そうだ、赤葦くんはそういう人なんだと、偶然あの場に居合わせた私が気まずい思いをしないようにと気を遣って声を掛けてくれたんだと分かっている、だから特別なんかじゃない、分かっている。それなのに、赤葦くんが「さん」と私の名前を呼べばそれはまるで特別なように感じるし、向かい合って座っていれば自惚れてしまう、そんな毒を赤葦くんは持っている。 「こういうのってさ、何書けばいいのかいつも悩む」 「あー分かる!私も悩んで悩んで、結局お昼休みのこと書いちゃった」 「ああ、さん今日野球部の奴らとトランプしてたね」 「そうそう、偶然通りかかったらつかまっちゃって」 「野球部って仲良い?」 「んー、まあ普通に、って感じかな。男バレのが仲良しってイメージあるよ、ほら、あの木兎先輩とか」 「あの人は、ちょっと世話が焼けるというか」 「赤葦くんがお世話してるの?やっぱり赤葦くんってみんなに優しいんだなあ、すごいね」 「・・・そうでもないと思うけど、」 「いーや、赤葦くんは優しいね!だって、この前佐伯さんが落としたプリント拾ってあげてたし」 「え、それは普通でしょ・・・目の前であんだけプリントばらまかれたら手伝わざるを得ないというか」 「でも佐伯さん喜んでたよ。赤葦くんは人を喜ばせるのが上手なんだと思う」 私の前の席の椅子に後ろ向きに座って日誌のコメント欄に何を書くか考えていた赤葦くんは、私が貸してあげたシャーペンをくるくると器用に回しながら「そっか、」と小さく呟いた。それから不意に沈黙が訪れて、教室内にはカチコチと秒針が時を刻む音と、赤葦くんがシャーペンを回す音だけが教室に響く。グラウンドから野球部やサッカー部の掛け声が遠く聞こえてくる。何かまずいことを言っただろうかと、不安になって赤葦くんの方をちらりと見たら、思いっきり目が合ってしまった。 「あ、あの、赤葦くん・・・」 「さんって、」 「・・・はい、?」 「俺に優しくされてるって、思ったことある?」 「え、あ、うん。今日も黒板消しやってくれて、私任せっきりでごめんね、ありがとう」 「それがさ、特別だとか思ったこと、ないの?」 「・・・と、特別、とは・・・あの、思ったこと、無いっていうか、いや、思ったらダメって、」 「なんで」 「なんでって、・・・だって、赤葦くんは、」 「俺は、普通の人間だし誰にでも特別優しいわけじゃない」 「さんの前だからいい恰好しようとしてるだけだし、さんには特別優しくしてるんだけど」 「そろそろ気付いてもらえると助かる」 致命的だ。じわりじわりと赤葦くんという存在に浸食されていた私の身体は、たった今完璧にすべて赤葦くんに攻略されてしまった。まるで返事を催促するかのように私から離れない赤葦くんの視線に誘われて、「あの、わたし・・・赤葦くんのこと、好きです」消え入りそうな声でそう伝えたら、優しい笑顔と少し違う、「日誌に書くこと、見つかった」とちょっと意地悪な笑顔を浮かべて、そんな赤葦くんに私は再び殺されてしまう。何度でも何度でも、これから私は今まで知らなかった赤葦くんを知るたびに、こうして柔らかく奪われていくんだろうなあと、そんな笑顔の赤葦くんを見ながらふと、考えた。 |