さんと俺が初めて出会った季節が、また来た。さんの彼氏の西尾さんは先月卒業し、地元の国立大学に進学したそうだ。もしかしたら、二人は別れるんじゃないか。そうすればさんがみんなの前で「徹くん」と俺の名前を呼んでくれるんじゃないか。そんな甘い期待を抱いた自分がバカらしい。相変わらず二人は仲が良く、部活の合間を縫って2週間に1度は大学近くで一人暮らしを始めたという西尾さんのアパートに遊びに行っているんだと、さんに押し倒されて笑顔で胸倉を掴まれながら報告された。
何でもする、何でも我慢するからさんの傍にいたい、そう思っているはずなのに、胸の中にどろどろとした感情が生まれてしまう。一人暮らしのアパートに遊びに行くなんて、つまりはそういうことじゃないか。俺にはキスひとつしてくれないくせに。別に、二人がいつまでもきれいなプラトニックな関係でいるとは思わないし、たぶん前から二人はそういうことはしてるに違いない。だけど、さんの口から直接聞いてしまうとやけに生々しくて、良い気持ちはしない。不意に、胸倉を掴んでいた力が緩まって、俺は後頭部から床に倒れこんでしまった。





「ねえ徹くん、すごい顔してるよ?どうしたの、痛い?」

「何でも、ないです。大丈夫ですよ、さん」

「・・・ごめんね、徹くん」

「なんで謝るんですか。俺は、どんなさんでも好きで、さんになら何をされても嬉しいんです」

「私、そういうの良く分からないけど、徹くんは本当にいいの?」

「いいんです。俺はさんの傍にいられるなら、何だって」





胸の中のどろどろした感情が顔に出てしまってたみたいだ。そんな俺を見透かしているようにさんは俺の名前を呼んで、そして自分がつけた傷をそっと指でなぞって小さく「ごめんね」と呟く。一度そんなさんを抱きしめようと手を伸ばしたら、「徹くん、ダメだよ」と拒絶されてしまったから、それ以降俺からさんに触れようとすることは無くなった。でも、本当は抱きしめたい。キスだってしたい。もちろんそれ以上だって。だけどさんは西尾さんのもので、俺のものじゃない。
きれいなさんの傍にいられるならそれだけでいい、そう思ってたはずなのに。










ある月曜日、放課後の2年棟にさんがやってきた。口元はいつものようにきれいな弧を描いているけれど、目が違う。いつもの笑顔じゃない。あれは、俺と二人きりの時だけに見せる目?いや、違う。もっと、別の目だ。他の誰かに気付かれてしまったら、ドキリと心臓が跳ね上がる。どうして、なんで、さんがここに。





「・・・徹くん、」





今まで人前では「及川くん」としか呼んでくれなかったさんが、俺の名前を呼ぶ。凛とした、そのきれいな声はざわざわしている放課後の教室の中にとても良く響いて、俺の鼓膜と心臓を揺らす。周りのクラスメイトたちは「及川、どういうことだよ!」「先輩に呼び出されてんぞ!」「え、先輩って西尾さんと付き合ってんだよな?」なんて好き勝手に言う。ああ、もう!ちょっと静かにして。俺だってよく分かってないんだから。さんの行動の真意が分からなくて混乱する俺を、挑発するようにさんがもう一度口を開く。





「徹くん、早く」





その一言に命令されて、俺は慌てて机の中身を乱暴にカバンに突っ込んでいく。ノートも、プリントも、ぐしゃぐしゃになるのも構わずに。早く、さんのところへ行かなきゃ。さんの隣に、早く。
急いでさんの待つドアへ向かうと、さんは相変わらず唇はきれいな形を保ったまま、目だけは変に濡れている感じで、俺の腕を取った。何だか、違う。ぞくりと鳥肌が立つような感覚。これは、いつものさんじゃない。西尾さんと何かあったんだろうか。だとしたら、これは俺に巡ってきたチャンスなのかもしれない。やっと、きれいなさんの隣に立てるときが来る。
高まる期待に飲み込まれそうになりながら、いつものように誰もいないさんの家の部屋に辿り着く。いつもならここですぐにさんに押し倒されて抵抗できなくなるはずだったのに、今日は違った。さんは部屋の扉を後ろ手に閉めたまま俯いている。本当に、どうしたんですかさん。いつもと違うさんももちろんきれいで大好きだけど、あまりにも違いすぎて心配になる。





さん?」

「・・・あのさあ、徹くん。徹くんは私のこと好きなんだよね?」

「はい、初めて会った時から今でも、さんのこと好きです」

「優弥もね、そう言ってくれたんだよ。私のこと好きだって。だから付き合ってた」

「・・・」

「だけどね、そういうのってすぐ変わっちゃうじゃん。好きだって言ってたのに、変わっちゃうじゃん」

「もしかして西尾さんとケンカでもしたんですか?」

「浮気してた。私よりも可愛くない子と。私がいない間に別の人に『好きだ』って言ってた」

、さん・・・あの、」

「だからね、私そういうの分かんないんだよ。好きとか、よく分かんない。ねえ徹くん、本当に私のこと好きなの?ねえ、好きってどういうこと?徹くん、教えてよ」





俺は、何があってもさんの傍にいたいです。さんが他の誰のものでも、俺を見てくれなくても、さんの傍にいられるなら、さんがきれいな笑顔を見せてくれるなら、それでいいと思ってました。それが、俺の「好き」ってことなんだと。だけど、それだけじゃ足りなくなって、さんを抱きしめたいとか、キスしたいとか、セックスしたいとか、そういう気持ちが我慢できなくなって。俺が、さんを幸せにしてあげたい、って。そう思うようになりました。殴られても、蹴られても、俺はあなたが大好きです。そんなさんでも抱きしめてキスしてセックスしたい。そういう、きれいじゃないどろどろした感情も含めて、「好き」ってことです。
そう、言葉にしたらぽろぽろと溢れて止まらなくなってしまいそうだった。言いたいことは山ほどあるのに、言葉が上手く出てこない。ドアに背を向けたままのさんを、自分の身体とドアとで挟み込む。「徹くんごめんね、私は徹くんのことを」そう言いかけたさんのきれいな唇を、自分の唇で塞いで言葉を遮った。何も言わないでほしい。俺は、ずるい奴だから。さんの傍にいられるなら何だって我慢する、それだけでいい、って思ってたのに我慢できなくなって、調子に乗って、勝手に期待して、弱り切ってるさんにキスするような奴なんだ。だから、俺がこの唇を離したらいつもみたいに、俺を殴って蹴って、傷付けてほしい。「ごめん」なんて言わないで。今までのことが全部無くなるような気がするから。





「・・・さん、俺はあなたに傷付けられたい」





唇を離してそう言ったら、さんは泣きそうな顔で「・・・分かった」とだけ呟いて俺を突き放した。
俺は、さんのこんな顔を見るのは初めてだった。











まだゆめをみていたい