あの日以降、さんは学校で俺の名前を「徹くん」と呼ぶことは二度と無かった。今まで通り、きれいな笑顔を見せて、きれいな唇から漏れるきれいな声で「及川くん」と呼ぶ。俺の名前を呼ぶのは、誰もいない時だけ。「徹くん」「徹くん」何度も俺の名前を呼びながら俺を傷付けていく、一年以上たっても変わらない行為。さんは西尾さんの裏切りに気付かないふりをして、今でも一緒にいるらしい。あの日、さんに西尾さんとはセックスしたんですかと聞いたら、「うん。セックスは、嫌いじゃないし」と恥ずかしがる素振りも見せずさんは答えた。何の感情も持たないでするセックスって虚しくないのかな、とも思ったけど、それは仮に俺がさんを無理やり押し倒したところで同じだから何も言わないでおいた。さんとセックスするなら、俺のことをきちんと好きになってくれたさんとがいい。叶うかどうかも分からない夢だけど。
だから俺は、さん以外の女の子はどうだって良くて、かわいいなあとも思わないし、ましてや付き合うなんて以ての外だ。それなのに、キャーキャー言われてしまう。最初の時点で突き放しておけば良かったのかもと思うけど、それも今となってはどうしようもない。写真を求められれば笑顔でピースサインするし、差し入れのお菓子も笑顔で受け取る。だけど貰ったものは全部、ゴミ箱に捨てた。お菓子だけは岩ちゃんや後輩にあげたりもしたけど、俺は口にはしなかった。そんな俺をさんがどんな顔をして見ていたのかは知らないけれど、大方西尾さんといるときのようなきれいな笑顔でいるんだろう。第一、俺が女の子から取り囲まれる風景なんて見慣れているはずだし興味も何もないはずだ。
そう思い込んでいたから、ある日の放課後校門前で他校の女の子に囲まれているところに帰宅するさんが偶然出くわしたときの表情の変化なんて、俺は全く気付かなかった。





「あ、及川くん・・・相変わらずすごい人気だね」

「いやあ、それほどでも!さんこれから帰るんですか?」

「うん、今日は晩ごはん作らなくちゃいけないし」

「そうなんですね、さんの手作りごはんおいしいだろうなー!」

「じゃあ、また明日ね」

「はい!お疲れ様です!・・・って、ちょっと君たち、うわっちょっと待って、写真は順番に・・・!」





きれいなさんに羨望と嫉妬の眼差しを向ける女の子たちをさんは華麗にスルーして、校門から出て行ってしまった。その背中を視界の端に捉えながら、さんの手作りのごはんをいつか食べることが出来たらいいなあ、なんて呑気に考える。夢のまた夢だ、そんなのは。「及川さんって何が好きなんですか?」「今度作ってきます!」なんて上ずった声で口々に言う女の子の頭の上からさんが歩いて行った方向をぼんやり眺めながら「んー、牛乳パン」と呟いたら、女の子たちは「分かりました!」とか言って満足そうにしていた。俺はさんが作ったものなら毒入りだろうと喜んで食べるんだけどなあ。
どうも最近、思考が欲張りだ。俺は、さんに傷付けられて、それで傍にいられるだけでいいんだ。夢なんて見ちゃだめだ。期待もするな。傷付けられるだけでも幸せだと思え。
さん、こんなバカみたいなことを考える俺を早く傷付けて、戒めてください。










いつもなら少なくとも2週間に一度は必ず呼び出されていたのに、部活以外でさんに全く会わない日が3週間続いた。どうして。俺はあなたに傷付けられるだけでいいのに、それすらしてもらえなくなってしまったら、俺はどうすればいいんですか。俺が、それ以上のことを少しでも考えたから?バカみたいなことを内心夢に見たから?それならきちんと反省するしペナルティも受ける、だから俺を傍にいさせて。
とうとう我慢できなくて、部活終わりにさんに無理やりついて行ってしまった。いつかのようにさんはドアを後ろ手に閉めたまま俯いている。ドアに手をついて自分の身体とドアとの間にさんを閉じ込めているのに、俺の方をちらりとも見ようとしない。電気すら点けないで、窓から差し込む街灯の明かりだけで見るさんの顔は、あの日一度だけ見た、今にも泣きそうな顔だった。





「・・・さん、俺のこと嫌いですか?傷付けるのさえ、嫌になりましたか?」

「・・・・・・」

「何とか言ってくださいさん」

「・・・・・・」

さん、『ごめん』でも良いから・・・さんが嫌なら、言うこと聞くから・・・」

「・・・っ、徹くん」





「もう、こういうのやめよう・・・ごめんね、徹くん・・・」





さんの唇から吐息交じりの震える声で言葉が漏れるのと同時に、さんの目からも涙の粒が零れた。初めて見る、さんの涙。なんて、きれいなんだろう。その涙を掬いたいと思うのに、俺にはその権利が無い。さんに触れることはあの日のキス一度だけでこれまでだって出来なかったけど、たった今完全に俺はその権利を失ってしまった。俺の目の前でぽろぽろときれいな涙をさんが零しているのに、俺は何も出来ない。





「私は、徹くんを、もう傷付けたくない・・・」

「・・・傷付けるためじゃなくて、一緒にいたい、」

「徹くんを、抱きしめて、キスしたい、」





「・・・私、徹くんが、・・・好き」





さんの手が優しく俺の頬っぺたに添えられる。さんの唇が、「好き」と動くのがまるでスローモーションのようだった。何も言えず、何も出来ず立ち尽くしている俺を、さんがそっと優しく抱きしめる。心臓が今まで感じたことが無いくらいにうるさくて、ドアに当てたままの掌にじんわりと汗をかく。さんの頭がちょうど心臓のあたりに当たって、もしかしてこんなにドキドキしてるのが聞こえてるんじゃないかと心配になる。俺は、この手をさんの背中に回してもいいの?さんの涙を掬ってもいいの?きれいな唇に、キスしてもいいの?





「・・・、さん・・・俺は、ずっと、ずっとあなたのことが好きでした」

「初めて出会った時から、ずっと、ずっと・・・」

「傷付けられても、さんの傍にいられるなら、それだけで幸せだって、思ってました」

「だけど、いつの間にか欲張りになって・・・抱きしめたくて、キスしたくて、仕方なかった」

「・・・俺は、さんが、好きです」





「俺は、さんを、抱きしめて、キスしても、いいんですか・・・?」





さんが小さく頷くのを感じた瞬間、俺はどうしようもないくらいに幸せで、さんを力いっぱい抱きしめた。だって、ずっとずっと、こうしたかったんだ。何度も触れようとして我慢して、ずっとずっと心の中で考えてたんだ。いつか、こうしてさんを力いっぱい抱きしめることを。
さん、言いたいことは山ほどあるんだよ。傷付けられたいなんて変なこと言い出してごめんとか、バカみたいな俺を傍においてくれてありがとうとか、好きでもない男とセックスするなんて馬鹿だとか、それでもずっとずっと好きだったとか、何から言えばいいのか分からないくらいあるんだ。きっと、全部を言葉で伝えようとしたらものすごく時間がかかるだろうから、せめてこのどうしようもないくらいたくさん積りに積もった2年分の「好き」の想いをキスで伝えようと思う。だから、せいぜい頑張って、一つも零さないようにしっかり受け止めてね。











だいすきなひと