私が物心ついた時、両親は既に仲が悪かった。お酒を飲んで帰ってきては母に暴力を振るう父、そんな父に愛想を尽かし不倫をする母。私の家の中はぐちゃぐちゃで、二人とも愛し合って結婚したはずなのに、こんなふうに壊れちゃうんだと思った。。案外簡単に壊れちゃうんだ。「好き」って言う言葉は、きっと何の意味も無いんだ。最初は両親がケンカするたびに自分の部屋のベッドの中で布団にくるまって泣いていた私も、いつのまにかそんな日常に慣れてしまって、小学生にしてなんだか悟りでも開いてしまったような気持ちだった。だから、私が中学生になる時に両親が「離婚する」と言いだしても、少しもびっくりしなかった。ただ、どちらについてくるのかを決める時に戻ることが出来るなら、私はあの頃の私に声を大にして言いたい。母親にはついていくな、と。





離婚した母親と私が転がり込んだのは、元不倫相手のマンションだった。小さいながらも会社経営者だったその人は、母親と私に生活の場を与え、そして母親には愛を惜しみなく与えていた。「好き」なんて言葉に何の意味も無いのに、一度それを身をもって体感しているはずの母親が、またこうしてその言葉に応えていくなんて不思議だったけど、それでも「もしかしたら、この人が母親にとっては運命の人なのかもしれない」「この人のいう『好き』は本当なのかもしれない」そう思えるほどに、その人と母親は幸せそうだった。これで良かったのかも、そう思った。それなのに、やっぱり違うと私の淡い期待を壊したのは、母親に愛を囁いていたその人だった。





ちゃん、少し話があるんだ」と、あの日のバカな私は「母親と再婚することにしたのだろうか」なんて単純思考で、放課後に呼び出されたその場所へ何の警戒心も持たず出向いてしまった。その人が経営する会社の応接室のソファに座って出されたコーヒーを飲みながら、その人が語る母親への想いを聞いていたはずなのに、気付けばその人は私の隣に座って私の肩を抱き、私への歪んだ愛情をぶつけていた。
「初めて見た時から彼女に似てきれいな女の子だと思った」
「彼女の若い頃を想像して興奮してしまう」
「彼女は少し歳を重ねすぎたが、君はまだ若くてとてもきれいだ」
「君が、好きだ」
私の中で何かが完全に壊れてしまったような気がした。やっぱり、あれだけ熱心に囁いていた愛の言葉も、結局は嘘だったんだ。母親にあれだけ愛を囁きながら、心の中では私が好きだった?だったらどうして母親に「好き」なんて言うの。やっぱり、「好き」なんて言葉には何の意味もない。そんな言葉、信じられない。
ソファに無理やり押しつけられながら泣いたのが、たぶん私が最後に人前で泣いたときだと思う。










そしてその人から逃げるように、高校は少し遠い私立の青葉城西高校に進学した。その人と母親は再婚し、表面上はそれはそれは幸せそうな家族を演じていたけれど、その人が私に向けるあの視線が私は嫌いだった。仕事が軌道に乗り忙しくしているその人と、新しく資格を取って始めた仕事が忙しい母親は、マンションに帰ってくる時間も遅く顔を合わせることも少なかったけれど、それでも私はあの視線から逃げたくて、県内でも強豪と言われ、練習時間の長い青城バレー部のマネージャーになることで、少しでも家にいる時間を少なくしようとしていた。
そんなある日、業務連絡で1つ上の先輩の教室に向かったところで「西尾優弥」という人と出会った。きれいな人だった。その場で連絡先を交換して、何度か映画を見たりごはんを食べたりデートをして、「付き合って」って言われて付き合うことにした。もちろん「好き」だとも言われたし「ずっと一緒にいたい」とも言われたけど、私にとってそんな言葉は何にも響かなくて、ただ、あの人の視線から逃げることが出来るなら、そう思って彼の言葉を受け入れた。
私と彼が一緒にいると、周りの人達が見惚れるようにこっちを見るのが分かった。彼はとてもきれいな人だったし、私もそれなりにはきれいであると思っていたから、「これがいわゆる『お似合いの二人』なんだろうなあ」なんて考えながら彼の隣を歩いていた。もちろん一緒にいて楽しかったし、キスもしたし、セックスだってした。だけど、一度分からなくなってしまった「好き」という感情はどれだけ一緒にいてもキスをしてもセックスしても、いつまでたっても分からないままだった。このまま私は何も分からないまま、お人形みたいな笑顔でままごとみたいな結婚をするのかもしれない。私はお人形じゃないし、本当はもっともっとどろどろした感情とか誰かにぶつけてしまいたい想いだってあるはずなのに。でもどうしたらいいのか分からなくて、結局はきれいな笑顔できれいな彼の隣に居続けた。





そんな日々を壊したのが、バレー部の後輩として入部してきた「及川徹」だった。入部届けを提出しに来た日から二週間後、彼は他の誰とも違う「愛」を私に告白してきた。「何をされてもいい」「傷付けられたい」そんなバカみたいなことを、少年のような無邪気さと、成長途中の不安定さと、不意に見せる大人びた視線がうまく混ざったきれいな顔で、言ったのだ。何をされても私の傍にいてくれる、そんな言葉に誘惑されて、私は徹くんを傷付けることにした。今まで行き場のなかったどろどろした感情とか誰かにぶつけてしまいたい想いを、全部ぜんぶ徹くんになすりつけて傷付けた。
私は、なんて最低な人間なんだろう。徹くんの言葉に甘えて徹くんを傷付けて、私は徹くんに何も与える気なんてないくせに、自分のどろどろした部分だけをぶつけ続けている。最低だ。そんな想いがふと漏れて、「ごめんね、」と呟きながら徹くんにつけてしまった傷をなぞっていたら、不意に徹くんが腕を伸ばしてきて私を抱きしめようとするのが分かった。ダメだよ徹くん、私なんて抱きしめたら。私は最低な人間で、徹くんが言うように私はたくさん毒を持っていて、私を抱きしめたら徹くんはきっと死んでしまう。だから、私を抱きしめたりしないで。どんなに私のことが好きだとしても。「徹くん、ダメだよ」その一言で、徹くんが死なずにすむのなら。










徹くんとそんな関係を続けていたある日、一足先に大学生になり一人暮らしを始めていた彼のアパートに、私のものじゃない髪の毛が落ちていて、化粧品が隠されていることを見つけてしまった。私が部活でアパートを訪れることがないと彼が思い込んでいる平日に、彼が知らない女の子の肩を抱きながら耳元で「好きだよ」と囁くのを遠くから見届けて、私は一つの結論を導き出しつつあった。
私は「好き」がどういうことか、まだ分かってはいない。だけど、私は彼のことが「好きじゃない」ということははっきりと分かる。だって、私は彼の浮気現場を目撃したというのに何の感情も抱いてない。私よりもかわいくない女の子、というのが少し腹立たしい程度だ。だったら何も言わず、私は彼の前からいなくなればいい。そして彼は私ではない人と「真実の愛」でも見つければいい。やっぱり、「好き」なんて、何の意味も無い言葉で、信用なんて、出来ない。
それから徹くんを無理やり呼び出して、いつもみたいにどろどろした感情をぶつければそれで話は終わり、そう思った。それなのに、教室の入り口からクラスメイトと楽しそうに話をしながら帰る準備をしている徹くんを見たら、なんだか分からないけど泣きそうになってしまった。あんなにもきれいな顔をしている徹くんを、私はずっと一年以上も傷付け続けてしまった。だけど私は徹くんの想いと優しさに甘えて依存して。もし徹くんが、彼みたいに他の誰かのところに行ってしまったら、私にそれを止める権利なんてあるはずもないのに、行かないでなんて言いそうになってしまう。ダメだ、私。きちんと、いつもの私でいなきゃ。だけど、私は、徹くんがいなくなってしまうのが、嫌だ。





「・・・徹くん、」





だから私は小さな独占欲と偽善的な優しさを見せつけようと、今まで人前では呼んだことのなかった名前で彼を呼び出した。いつもならすぐに押し倒して徹くんをめちゃくちゃにしてしまうのに、今日はそれが出来ない。「傷付けられたい」なんて言った徹くんが、心の底からそんなことばかり考えているわけないんだ。本当は、痛くて痛くて、嫌で仕方ないに決まってる。それなのに私がいつまでも依存してるから逃げられなくなってるだけじゃないの、徹くん。ねえ、私のことが好きなんでしょう。だったら、きれいな顔で「何されてもいい」とか「傷付けられたい」とかそんなきれいな言葉ばっかり言わないでよ。もっと、徹くんの本当の気持ちを教えてよ。私のことが好きなら、ねえ、きちんと伝えてよ。
そんな想いがぐちゃぐちゃになって、徹くんに言葉をぶつけてしまう。ああ、もうこういうことしたくないって思ってるのに。私は本当にバカで最低だ。





「徹くんごめんね、私は徹くんのことを」





そう言いかけた私の唇を、徹くんのきれいな唇が塞ぐ。ねえ、徹くん。今、何を考えてるの。何を思って私にキスをするの。こんなキス、私は知らない。好きでもなんでもない人とするキスとは全然違うんだよ、徹くん。思わず徹くんの身体に抱きついてしまいそうになって、やめた。ダメだ、私には徹くんを抱きしめる権利なんてない。あれだけ徹くんを傷付けてきた。きれいなふりをして隠してきた棘でいっぱい刺してきたんだ。今さら私が抱きしめたって、きっと徹くんを傷付ける。私は、もう、こんなことしたくない。
それなのに、唇を離した徹くんが言ったのは、「・・・さん、俺はあなたに傷付けられたい」のたった一言で、私は「・・・分かった」と言うので精一杯だった。










そして私と徹くんの関係性は何ら変わることなく、私がどれだけひどいことをしても徹くんは私の傍にいてくれた。徹くんがそれを望むなら、私はそれを叶えてあげたい。そう思ったからあの日私は「分かった」と言ったのに。徹くんにひどいことをするたびに、私はどんどん苦しくなっていく。もうこんなことしたくない、でも徹くんが望むから、だけど私は傷つけたくない、それでも徹くんの言葉を叶えてあげたい、私はどうするのが正解なんだろう。そんなことを考えながら校門を出たところで、他校の女の子たちに囲まれている徹くんと出会ってしまった。今までだって何回も見てきたはずの光景なのに、最近どうも心臓が痛い。徹くんの周りには徹くんのことを好きな女の子がたくさんいて、きっと彼女たちは徹くんを傷付けることなんて無いだろう。それなのに徹くんを傷付けてばかりの私が徹くんの一番近くにいてもいいんだろうか。周りの女の子たちの視線を感じながらも徹くんと適当な会話をして、背中を向けた。
私は、徹くんに幸せになってもらいたい。傷付いてほしくない。だけど私は徹くんを傷付けてばかりで、幸せになんかしてあげられない。でも、私は、徹くんが私以外の誰かの隣で笑ってるのを見たくない。徹くんに傍にいてほしい。徹くんの傍にいたい。徹くんの幸せを願うのに、幸せにしてあげられない私の傍にいてほしいとも思う。ああそっか。私、徹くんが好きなんだ。
そして私は、徹くんを傷付けないために、徹くんに連絡を取るのをやめてしまった。





連絡を取らなくなって3週間、部活中に何度か徹くんと会話をすることはあったけど、それは全部事務的な内容ばかりで、私は出来る限り冷静を装って、視線も合わせないようにしていた。徹くんが何かを言いたそうにしているのは分かっていたけど、もしもう一度徹くんと二人きりになってしまったら、私は自分の想いが我慢できなくなってしまう。私は徹くんを傷付けないために、幸せになってもらうために、徹くんから離れるんだ。
それなのに、徹くんは無理やり私の部屋についてきてしまった。いつも私が徹くんを傷付けていた、そんな場所なのに。私は、徹くんが好きだよ。だから、もう傷付けたくない。傷付けるためじゃなくて、傍にいたい。抱きしめたい、キスしたい。だけど、私は徹くんをたくさん傷付けてきた。だから私にそんな権利無いって、思う。だから離れたんだよ。それなのに、そんな傷付いたような顔して私を見ないで。そんな泣きそうな声で私の名前を呼ばないで。徹くんが好きだっていう気持ちが、我慢できない。





「・・・私、徹くんが、・・・好き」





ごめんね、徹くん。私はバカで最低でわがままな人間だ。傷付けたくないと思って離れたのに、徹くんがこんなにも近くにいると、自分の想いが我慢できなくなっちゃった。「好き」なんて言葉で、今までの全部が許されるなんて決して思いはしないけど、だけど私は徹くんを抱きしめて、キスしたい。これまでの私を許してとは言わない。だけど、最後に、徹くんに優しく触れることだけは許してほしい。そっと、徹くんの頬っぺたに触れて、それから徹くんの大きな背中に手を回す。今までひどいことをして傷付けてばかりだった徹くんの身体は、初めて抱きしめた徹くんの身体は、とても温かい。もっと早くに気付いてれば良かったね。私は本当にバカだ。
最後に徹くんの心臓の音を聞いてから回した手を離そうとした時、頭の上から徹くんの小さな声が聞こえてきた。






「・・・、さん・・・俺は、ずっと、ずっとあなたのことが好きでした」

「初めて出会った時から、ずっと、ずっと・・・」

「傷付けられても、さんの傍にいられるなら、それだけで幸せだって、思ってました」

「だけど、いつの間にか欲張りになって・・・抱きしめたくて、キスしたくて、仕方なかった」

「・・・俺は、さんが、好きです」





「俺は、さんを、抱きしめて、キスしても、いいんですか・・・?」





ダメだ、涙がこらえきれない。ねえ、私バカだからさ、また徹くんの言葉に甘えちゃうよ。徹くんの言葉に縋っちゃうよ。私は、徹くんの言葉だけを信じてきたから、これからもずっと徹くんの言葉で生かされていくんだよ。ねえ、徹くん。抱きしめてくれるの、キスしてくれるの?徹くん、大好きな徹くん。バカで最低でわがままな私を、抱きしめてください。キスしてください。私の一生のお願いだよ。
徹くんの胸に顔を埋めたまま小さく頷いたら、そのまま強く強く徹くんに抱きしめられた。誰かの傍にいることが、こんなにも幸せなことだなんて思わなかった。大好きな徹くんを傷付けることなく抱きしめられることがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。きっと、大好きな徹くんとするキスはもっともっと幸せで嬉しいんだろうね。 だから、もっと私にキスをしていいよ、徹くんの想いを全部受け止めるから。











わたしのものがたり