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昼休み、ふらりと何の気なしに立ち寄った図書室で、ある一冊の本の背表紙に目が留まった。少し古ぼけた印象のハードカバー。タイトルは何とも物騒な文字が並んでいる。「蹴りたい背中」。手に取った表紙には体操服姿の女の子のイラストが描かれている。なんだろう、この本。作者は女性みたいだけど、内容がかなり気になる。学校の図書室だからそんないかがわしい本では無いんだろうけど、蹴りたい背中、なんて「気にしてください」と言わんばかりだ。ぱらぱらとページをめくっていたら、非情にも昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いてしまった。慌てて本を棚に戻す。次の授業の先生は遅刻に厳しい。少しでも遅れれば必ず授業中に当てられてしまうから、それだけは避けたい。昼休みの余韻を残してざわめく廊下を、私は急いで教室に戻った。 お弁当を食べた後の授業というのは、何であれ眠くなってしまうのはなぜなんだろう。遅刻を免れ先生に当てられる危機をとりあえず回避した私は、ぼんやりと目の前の背中を見つめながらそんなことを考える。教室の一番後ろの列に座る私の一つ前には、及川が座っている。バレー部なだけあって身長も高いからもちろん座高も高いわけで、先生の視線から隠れるのに絶好だ。今日もそんなふうに先生の視線を避けながら、及川の広い背中を眺める。ふと、さっき図書室で手に取った一冊が脳裏に浮かんだ。 蹴りたい背中、か。きちんと読んではいないから内容は分からないけれど、流し読みした文章ととタイトルから内容を想像するのはそう難しいことではない。なんとなく、分かる気がするなあ、なんて。だって、私も蹴ってみたいもん。目の前の、この広い背中を。 及川は、とても残念なやつだ。下級生や他校生からはキャーキャー言われてファンクラブもあるとかっていう噂を聞いたことがあるけれど、同学年からしてみれば本当に残念なのだ。黙って黙々とバレーをやっていればいいものを、口を開けばナルシストだしちょっと空気読めない感じだし、せっかく整った顔をしているのに天は二物を与えずとはまさにこういうことを言うんだろう。誰とも真面目に付き合わないらしいし、全く意味不明だ。 そんな及川の背中を蹴ったら、及川はどんな反応をするんだろう。見てみたい。 「・・・!、おい!聞いてるのか!」 「は、?え、あっ、はい!」 「お前は目を開けたまま寝るのが特技なのか?しっかり聞いとけよ、ここは入試でも良く出るところだぞ」 「うっ・・・すみません」 や、やってしまった。及川の背中を蹴りたいあまり、ぼんやりしすぎたみたいだ。目の前で及川の背中も小さく震えている。うわ、むかつく。及川のせいで先生に注意されたっていうのに、笑われるとか。ほんと、この背中蹴ってやりたい。 とりあえずは視線を机の上に戻し、先生に言われたところを蛍光ペンでチェックしていく。意外にも長い時間ぼんやりしていたようで、板書が全く追いついていない。シャーペンとカラーペンを必死に動かしてノートを埋めていく。それなのに、ふとした拍子に脳裏に浮かんでしまう。蹴りたい背中が。ああ、だめだ集中しなきゃ。私の志望大学に合格するためにはまだ学力が不足しているとこの前の模試で言われたばっかりなのに。集中、集中、集中、集中、・・・ああ、及川の背中蹴りたい。 授業終了のチャイムが鳴るまで、私の頭の中はこの繰り返しだった。 ********** 「ねーちゃん、授業中ほんとに目開けたまま寝てたの?」 次の授業の準備をしている私に、一つ前の席の及川がアホみたいな質問を投げかけてきた。そんなわけないじゃん。でも、及川の背中を蹴りたいなあって考えてたら注意された、なんて本当のことを言うわけにもいかず、教科書とノートをトントンと机で揃えながらぶっきらぼうに返事をする。 「そんなわけないでしょ、ちょっと考え事してただけ」 「えー!せっかく目開けたまま寝る方法教えてもらおうと思ったのに!」 「私が教えてもらいたいくらいだし」 「仕方ない、あとで岩ちゃんに聞いてこよーっと。で、ちゃん何考えてたの?」 「・・・べ、別に及川には関係ないじゃん」 「そうなの?なんか授業中すっごい視線感じたと思ったんだけどなー」 ほんと、及川って意味不明だ。なんでこういうとこ鋭いかな。ますます蹴りたい。揃えた教科書とノートを机の端に置いて、視線を及川に向ける。及川の大きな茶色い瞳は、たぶん何も深いことなんて考えてなくて、ただ純粋に疑問を呈しているだけだ。そんな及川の瞳は、私に蹴られたらどんなふうになるんだろう。痛い、って泣くのかな。何すんの、って怒るかな。蹴りたい、蹴ってみたい、及川の背中を。そしてその瞳がどんなふうに動くのか、見てみたいだけだ。 「・・・蹴りたい」 「ん?」 「・・・及川の背中、蹴りたいなーって思って見てた」 「おお・・・!こりゃまたなんてバイオレンスな・・・!」 「ねえ、蹴ってもいい?」 「え、何で蹴りたいの?もしかして岩ちゃん的ポジションに憧れて!?」 「いや、自分でも良く分かんないんだけど・・・なんか、及川見てると蹴りたくて」 「ヒドイっ!」 思わずぽろりと口に出してしまった本音を、及川は特に大した意味の無い冗談だとでも捉えたのか、なんら態度を変えることなく会話を続ける。私としては本気で蹴りたいと思ってるんだけど。まあ、普通こんなこと言われたら冗談だと思うか。私がもしそう言われたら、絶対冗談だと思うし。とりあえずこの話題はこれで終わりにしよう。及川が私の目の前にいる限り、いや席替えしても及川を見る限り、きっと私は及川の背中を蹴りたいと思い続けるだろうけど、ただのクラスメイトを何の理由もなく蹴るのは良くないことだと分かっている。 「・・・いや、まあ冗談なんだけど」 「いいよ」 「はい?」 「だからあ、蹴ってもいいよ俺のこと!」 「な、なな何言ってんの及川!頭大丈夫!?」 「今日はまだ岩ちゃんにも殴られてないし大丈夫なつもりだよ!」 「あ、そうなの・・・って、いやいや!及川、私に蹴られたいの?」 「うん。ちゃんに蹴られたい。そのかわり、」 「・・・なに?」 「ちゃんが俺を一回蹴るたびに、俺はちゃんに一回キスするよ」 ぽかーん。漫画なら絶対そういうオノマトペが私の背後に浮かんでいるはずだ。私の顔、きっと今すごい間抜けなんだろう。だって、及川がとんでもないことを言った気がする。なに、私が及川を蹴ったら及川が私にキスするの?意味不明だ。 上手く返事が出来ずに金魚みたいに口をぱくぱくさせる私に、及川がへらりと笑って顔を近付ける。うわ、まつげ長い。なんかミントみたいな、いいにおいだ。いけめんは体育会系でもいいにおいがするんだろうか。及川の茶色い瞳は、さっきの純粋な目とは違う、なんだかぎらぎらした感じだ。 ちゅ、と小さな音を立てて及川の唇が私の唇に触れて、そして離れた。 「あっ、先にキスしちゃった!」 「なっ、なななん、なに、及川っなに、!?」 「こうでもしなきゃ、一生ちゃんとキス出来ないかなーって思ったから」 「はっ!?ちょっ、待って、意味分かんない、なに、どういうことっ!?」 「んー、意味分かんなくてもいいからさ、とりあえず俺の背中、蹴っときなよ」 「わ、分かった」 |