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夏休み最初の日曜日、校舎の中は基本的に人影はない。受験を控えた生徒たちが参考書と問題集を手に図書室に自習に来ているくらいで、あとは部活の合間にジュースを買いに来たとか、そんなものだろう。グラウンドからは野球部やサッカー部の声が響いているけれど、それは逆に校舎の中がシンと静まり返っていることを強調させるような気がする。そんな日曜日なのになぜ私が学校に来ているかと言えば、それは他の生徒たちと同じくクーラーの効いた図書室で受験勉強をするためだ。自宅でももちろんクーラーは使えるけれど、やっぱり誘惑が多すぎる、おやつも食べ放題だし、漫画だって手を伸ばせばそこにあるのだから。なんて、そんな言い訳を頭の中で並べつつ、日曜日の今日わざわざ学校に来たのには別の訳がある。スクールバッグとは別に持ってきた小さな紙袋、中にはラッピングされたスポーツタオルが入っている。渡す約束なんてしているわけもないし、勇気だってない、心の準備は何一つ出来てない。それでも、と思って持ってきたのは、クラスメイトの及川くんへの誕生日プレゼントだ。 ◇ 及川くんという存在を初めて知ったのは、中学校のバレーボールの県大会でだった。一つ年下の弟がレギュラーに選ばれたからと応援に行った市の体育館で、弟の対戦相手として戦っていたのが及川くん率いる北川第一中学校だったのだ。バレーボールなんて体育の授業でやったくらいの知識と技術しか無かったけれど、自由自在にボールを操りゲームメイクをしていく及川くんの姿に、いわゆる一目惚れをしてしまった。北川第一が弟たちのチームを下し、もうそこにいる義務なんて無かったけれど、どうしても及川くんの姿を見ていたくて、「ー私たち先に帰るよ」なんて一緒に応援に来ていた友達の声に曖昧に返事をして、その日決勝戦が終わるまでずっと私は及川くんがバレーをする姿を見つめていた。 声をかけるなんて、とんでもないことだった。及川くんはまるで命でも懸けているかのようにバレーボールに熱中していて、それなのに同い年の私は「進路どうしようかなあ勉強したくないなあ」なんてぼんやり考えているだけだったから、まるで不釣り合いだと思ったから。 だから、せめてそんな及川くんに追いつきたいなんて自己満足な感情で勉強して、北川第一のバレー部のメンバーの多くが進学するという青葉城西高校に入学したのだ。自己満足ではあるけれど、それでも青城は偏差値もそれなりに高くて文武両道を掲げる高校だったから、両親は反対もせずむしろ合格した時は大喜びだった。それもそうだろう、今まで特に目標も無く過ごしていた私が急にやる気を出したのだから。そして恋の力というのはこんなにも大きな威力を持つのかと、15歳にしてそんなことを考えてしまうほどに私は及川くんに恋をしていた。 高校に入学して最初の年、まるで奇跡のように、及川くんと同じクラスになることが出来た。「最後の試合、見てたよ」と声を掛けたかったけれど、負け試合のことを言うのもなんだか気が引けて結局及川くんと私は普通に何の変哲もないただのクラスメイトとして1年間を終えてしまって、次の年はクラスは離れ離れでほとんど何ら接点も無く、たまに移動教室の時なんかにすれ違うと「あーさん!やっほー」なんてヒラヒラ手を振ってくれる及川くんの笑顔に何度も何度もときめいて、だけど他の女の子たちに取り囲まれている姿を見て寂しくなったり、及川くんと同じクラスであろうとなかろうと、私の学校生活はまるで及川くんを中心に動いているみたいだった。そして今年、もう一度及川くんと同じクラスになることが出来て、誕生日は終わってから知った一昨年と、クラスが違うのにお祝いする勇気が無かった去年とは違って、今年が及川くんのお誕生日をお祝いするには一番ふさわしいだろうと考えて、悩みに悩んで春高まで部活を続けると言っていた及川くんならいくらあっても困らないであろうスポーツタオルをプレゼントに選んだ。あとは、これを及川くんに渡すだけだ。 ◇ クラスメイトだし、「さんって誕生日いつなのー?」なんて話もしたことあるし、私が及川くんに誕生日プレゼントを渡したとしても全然不自然じゃない、と思う、というかそう思い込みたいのが本音だ。だけど渡す勇気が出てこない。恋の力で及川くんと同じ高校に行くために頑張ったあの頃の私のエネルギーは一体どこに行ってしまったんだろう。お昼休みに、きっとバレー部もお昼休憩だろうしもしかしたらと思って一応プレゼントを持って第三体育館に向かったけれど、体育館に向かう渡り廊下を歩いている辺りから、女の子たちのキャーキャーという黄色い歓声が聞こえてきて、廊下の出口から体育館方向を覗けばドアのところに大勢の女の子に囲まれてニコニコ笑っている及川くんの姿が見えたので、やっぱり今はやめとこうなんて早々に諦めて戻ってきたのだ。この調子だと練習が終わった夕方もきっと女の子たちは及川くんにプレゼントを渡そうと待っているだろうし、そして私はそんな女の子たちに交じってプレゼントを渡す勇気なんて結局出ないままだろう。 そんなことを考えながら問題集のノルマを終えて、気付けばもう夕方5時だ。結局ぐだぐだと勇気が出ない言い訳を考えて渡せなかったプレゼントは、別に腐るものでもないし、月曜日からは夏期講習も始まるということもあって、教室の及川くんの机にこっそり置いておくことにして、広げていた参考書と問題集とノートを片付けて教室に向かう。午前中よりももっと、校舎の中は静かだ。教室のドアを開ける音がやけに大きく感じて、思わず辺りを見渡すけれど、人っ子一人いない。一番の窓際の列の後ろから二番目席、今の及川くんの席は教室の中の特等席だ。 「及川くん、お誕生日おめでとう」 「ありがと、さん」 それは私にしか聞こえないはずの言葉だったのに、あるはずのない返事が聞こえてきて思わず手にしていた紙袋の紐をぎゅっと握りしめて振り返る。振り返った先にいたのは、私がこっそりお祝いの言葉を呟いた宛先、及川くんだった。私が開けたままにしていた教室の後ろのドアにもたれかかっている及川くんはジャージ姿で、両手にはたくさんのプレゼントの包みを抱えている。暑い中の部活を終えた後だというのに、とても爽やかな笑顔だ。私がまるで酸素を求める金魚みたいに何も言えないで口を開いたり閉じたりしているのを「さんってばびっくりしすぎだよー」なんて笑いながら、及川くんが教室の中に入ってくる。 「え、っと、あの、及川くん、なんでここに」 「いやーちょっとプレゼント貰いすぎて持って帰れないからさ、教室に置いておこうと思って」 「あ、そうか、及川くん人気者だもんね・・・」 「・・・・・・っていうのは冗談で、ほんとはさんが廊下歩いてるの見えたから」 「え?」 「さんに会えるかなって思って、追いかけてきた」 自分の席まで来た及川くんは、抱えていたプレゼントをドサドサッと机の上に文字通り落とす。机の上に乗り切らなかったいくつかの包みは、勢い余って床に落ちてしまった。慌ててそれを拾おうと屈んだ私の手を、及川くんが捕まえる。机と机の間で、及川くんと私との距離が今までで一番近くなる。まるで汗ひとつかいていないように見えたのに、私の手の甲の上に重ねられている及川くんの手の平はじんわりと汗ばんでいて、その温度につられてなのか、私の手の温度も、そして頬っぺたの温度も上がっていくようだ。 「さん、今日お昼休みに体育館来てたでしょ。すぐ帰っちゃったけど」 「気付いてたの、?」 「うん、本当は声掛けたかったんだけど」 「女の子に囲まれてたもんね、いいよ気にしないで」 「気にするんだ」 「え?」 「・・・・・・気にしちゃうんだよ、さんにああいうとこ見られると」 私の手を掴んでいる及川くんの手に、ギュッと力がこめられる。どくんどくんと、心臓が大きな音を立てるから、この手を通してそれが及川くんに伝わってるんじゃないかと気が気じゃない。手と手が触れている部分が、ますます熱い。これはきっと、クーラーの効いていない教室の温度が暑いからなんていう単純な理由じゃないだろう。きっと、もっと、別の何かのせいなんだ。 「俺は、さんからプレゼントもらえればそれだけでいいんだ」 「及川くん、」 「ズルいかなって思うけど、でもどうしようもなくて。俺、さんのこと好きなんだ。だからもう一回、ちゃんとおめでとうって言って」 熱中症で幻覚と幻聴でも起こしてるんじゃないだろうかと思うほどに、頭がクラクラだ。喉だってカラカラで思うように喋れない。だけど熱中症じゃないって分かる。手と手が繋がっている部分の温度を上げているのは、及川くんと私を繋ぐ、たった一つの気持ちだ。 3年前のまだ本格的な夏が始まる前のあの日、市の体育館で及川くんを初めて知った時からずっとずっと、きっと及川くん本人に告げることはないだろうと隠していた気持ち。笑顔を見るたび嬉しくて、他の誰かといるところを見るたび切なくて、それでもずっと大切にしてきた気持ち。及川くんがいつどうして私のことを好きになってくれたのか、気にならない訳じゃないし知りたいとも思うけど、今はきっとそんなことよりもっと大事なことを及川くんに私は伝えなくちゃならない。 その全てを言葉に表すなんて到底出来ないけれど、それでもせめて少しでも伝わってほしいと思うから。 「及川くん、お誕生日おめでとう。ずっと、ずっと及川くんのこと好きだったよ」 |