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僕を何時までもこの世界に引き留め縛り付けるのは欲望だろうか、はたまた絶望だろうか。或いは偽善ぶった贖罪か、それとも神罰か。とりあえず、よくは分からないまま僕はあれから長い時間生きてきたように思う。着慣れた着物に腕を通し、窓際の小さな文机に座って思い付くままに筆を走らす。 僕には何もない。こうして文章というものをいわゆる作家としてしたためてはいるが、どうも僕にはその才能があるとも思えない。本当に、僕には何もない。帰るべき場所も失った僕なのだ、いや、物質的にはあるのだが、そうでなければ僕が今座っている場所は何だと言うのだろう、つまり精神的にという意味において僕はまるで浮浪者である。
やはり、僕には何もない。
不意に、「先生、雲雀先生」と僕を呼ぶ声がする。どう返事をしたものかと、名前を呼ばれただけでは何とも分からず黙っていると、沈黙は肯定だと判断したのか(恐らくあの呼びかけは、この襖を開けても良いか、という意味だったのだ)女がするりと襖を開いた。女は一つ礼をすると、盆に乗った朝食を運び入れた。
「雲雀先生、お早うございます」
「ああ、君も早いね」
「私は朝食を作らなければなりませんから。先生、御飯はこれくらいで?」
「ああ、十分だ」
この女は、名をという。歳はおそらく十六、七だと思われる。この時代の女にしては珍しく教養のある人間で、それから美しい人間だ。何故彼女が此処にいるのかと聞かれると、それはまた説明にひどく時間が掛かるような掛からないような、僕にとっては上手く説明し難いので、気が向いた時にでも話すことにしよう。とりあえず今は、彼女は僕と同じ家に暮らし、僕の世話をしてくれているのだとだけ記憶しておいてもらいたい。
「それでは先生、お食事が終わったら声を掛けて下さいね。盆を下げますから」
「ああ・・・いや、そうだ、さんも此処で一緒に食べないか」
「でも、雲雀先生、それは・・・」
「どうせさんも向こうで一人で食べるんだろ。それなら二人で食べた方が楽しい」
「ええ・・・ではこちらに持って参ります」
「ああ」
人間とはつくづく不思議なものだ。僕は自分で自分の事をまるで他人に興味を示さない人間だと思い込んでいるが、不意に今みたいに気まぐれに、誰かに側に居てほしくなったりもする。そんな事が昔もあった。そしてその事は今でも僕の大部分を形作っている。が自分の朝食を持ってくるのを、部屋に散乱した原稿用紙を集めて待ちながら、僕の心は既に今という時を離れつつあった。
そこは、今からちょうど九年程前だった。
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