その時の僕は帝国大学を出たばかり。大学を出れば将来は約束されているのが常だが、元より僕はそれを望んでいなかったし、何より僕は作家になりたかった。太宰のような、漱石のような、そんな中の一人になりたいと思っていたので、僕に就職の口が回ってこなかったのも至極当然である。
僕は大学の寮を出て、とある家に下宿することになった。そこには戦争で夫を失った未亡人と僕と同い年の息子、それから二つ年下の娘の計三人が暮らしていたのだが、その戦死した夫というのがなかなかに階級の高い人物だったので、その家は母子三人が暮らすには余りにも広すぎるのだった。そこで下宿人を求めてみると、ちょうど僕が現れたというわけだ。その家の名字は何と言っただろう。いや、実は覚えているのだが、僕の心が、唇が、それを思い出し口にするのを全身全霊で拒む。ただ、その娘の名前は、もう身体に染み込む程に呼んだ名前なので、覚えている。
彼女の名前は、といった。
これで一つ、どうして僕とさんが一緒にいるのか理由が分かっただろうと思う。事実は小説よりも奇なりと言うが、その後の僕ととの関係は、まるでありきたりな恋愛小説のように深まっていった。僕はを愛したし、も僕を愛した。一つ屋根の下に家族ではない異性同士が暮らし、どうして恋愛感情が生まれないだろう。

「恭弥さん、開けてもいい?」
「ああ、構わないよ
「別に用事が在るわけではないのだけど、恭弥さんとお話したくて」
「奇遇だな、僕もと話したかった」

は何かあればすぐ、何の用事もないとしても、僕の部屋の襖を開く。同じように僕も、ただし僕は他の人間に怪しまれることはないよう用心深く、何かと用事を作ってはの部屋を訪れた。部屋の間取りは同じはずなのに、何故かそこは違う空間だ。僕の部屋には原稿用紙が散らばっているが、の部屋には何も散らばらず全てが整っていた。
僕はの膝に頭を載せて、今書いている小説の粗筋を話したり、下からの頬を撫でたり、時にはその顔を引き寄せて唇を重ねたりした。その時の僕はとても幸せで、僕に出来ないことなんて何もないと思っていた。実際、下宿を始めてから書いたある小説がある雑誌に掲載され、大学の友人や家の者達に褒められ讃えられ、僕はこの世界が僕の為にあるのだとすら思う程だったのだ。
本当の世界はそんなことがあるはずもないのに。



馬鹿な事だが、素晴らしい作家になるためには何かしら不幸な経験が必要だと思う節が僕にはあった。先人達はそうしてそれを基に作品を書き上げているかのように僕には見えたのだ。しかし幸せだった僕は、そんなものは僕の目に映った幻影だと気付いた。現に僕は幸せのうちに人に認められている。そして僕の側にはがいる。それだけで僕は世界を凌駕したつもりになっていた。






二、 回想T