|
いつの間にか僕の目の前からは朝食の盆が下げられていて、さんの姿もなかった。箸を動かして口に食事を運んでいた記憶はあるのだが、献立が何であったのかよく覚えていない。さんと二言三言、言葉を交わした記憶もあるが、内容は覚えていない。僕はかなり上の空で朝食を食べていたらしい。自分でさんを此処に呼んでおきながら、悪いことをしてしまったと素直に反省した。
僕は「さん」を通して「」を見ているのだと思う。上の空の食事がどうこうとかそれ以前に、僕はそんな酷い事をさんにしているのだと思うと、やり切れない気持ちだ。僕はを愛していたが、さんを愛しているのかと聞かれるとどうにも困る。愛していないわけではない、だけどそれはさんを愛しているのか、彼女の向こう側にいるを愛しているのか分からないからだ。
全く酷い男だよ、僕という奴は。
それでもそんな僕の側にいてくれるさんは、やっぱり僕を少なからず愛していてくれるのだろうか。
「さん、ちょっといいかい」
「はい、何でしょう先生」
「一緒に散歩でもどうかと思って」
「あら、素敵ですね。是非ご一緒させてください」
二人並んでゆっくりと、数百メートル程離れた公園まで歩く。夏に近付く季節の風が、どこからか繁る緑の匂いを運んでいた。
さんはその風を胸一杯に吸い込んで、「気持ちいい風ですね、雲雀先生」と言った。僕はそうだね、と答えて少し歩調を緩めると、つきあたりのT字路で、公園はどっちだったかなと少し思案した。公園なんて、近くにあるのは知っていても殆ど行くことなんてないのだから、僕は少し困ってしまう。
「先生、公園なら左ですよ」
「ああ、そうか。悪いねさん、行かないもんだから」
「たまには運動しなくてはお体に障りますよ」
「そうだな、ああ、明日から毎日散歩でもすることにしよう。さん、ついてきてくれるかい」
「ええ、喜んで」
左に曲がるとすぐに公園は見えてきて、中に入るとそこには僕と同じように散歩している人だったり、楽しげに球遊びをする母子だったり、並んで語らう男女だったり、思ったよりも多くの人でいっぱいだった。
さんと並んで歩きながら、ふと擦れ違った老夫婦の会話が風に乗って僕の耳に届いた。
「あらあら、可愛い奥様を連れてお散歩だなんて素敵ねぇ」
「若いのになかなか風情ある旦那さんだよ」
「私達も昔からよく一緒にお散歩しましたねぇ」
「まだまだこれからも続けていこうじゃないか、千代さん」
胸が、急に熱くなった。僕がさんの旦那さんだって?そんな資格、あるわけないじゃないか。だって僕は、本当に酷い男だ。皆それに気付かずに僕を「優しい人だ」とか言うが、騙されているだけなのだ。
早く本当の僕に気付いてくれないか、早く僕の本性を見抜いてくれないか。そうして、早く、僕を責めてくれ。
「雲雀先生?顔色が・・・」
「・・・ああ、少し気分が悪い。さん、帰ろう」
「大丈夫ですか?帰ったらお医者様を呼んだ方が」
「いや、いい。平気だ。ありがとう」
僕に優しくしないでくれ。僕は責めて欲しいんだ、この世にいる理由を奪う程に強く。いっそのこと殺してしまう程に憎んで、呪って、本当に殺してくれたらどんなにか幸せだろう。何もない僕は、生きる価値もない。なのに、どうして僕の心臓は、そう思えば思う程強く鼓動を打って、体中を熱い血潮が駆け巡る。僕の心とは裏腹に、僕の身体は生きたいと望んでいるのだ。そんな自分が余計に許せない。
死にたい、死にたくない。生きたい、生きたくない。僕はもう、うんざりしているのに。
家に帰り着くと僕はそのまま自室に戻って、さんが朝きちんと畳んでくれた蒲団を乱暴に広げると、その中にくるまった。誰も僕を見つけられないように、誰も僕に触れないように、僕は蒲団がつくった即席の暗闇の中へ潜り込んだ。
|